明治維新と中津

幕末中津藩の動向

幕末の動乱と中津

   文久三年(一八六三)、尊王攘夷運動が高まるなかで、幕府は中津藩に対して「小倉藩を授け、  小倉藩内に潜伏して暴挙を企てている長州藩士を警戒せよ」と命令をくだした。  当時、尊王攘夷運動は「討幕」、すなわち幕府を否定するものではなかった。開国をせまる外国の圧 力に対抗できない幕府の無力は明らかだったが、幕政二〇〇年の歴史を簡単に否定することもできず、 会津・薩摩等の雄藩は「公武合体」、つまり朝廷と幕府が力を合わせることにより、幕末の危機を克服 しようとした。

 しかし、長州藩は朝廷中心の新しい政治の確立をめざし、ここにさまざまな政変が生じた。孝明天 皇に攘夷親征の詔を出させた長州藩に対し、会津・薩摩ら公武合体派は、文久三年八月十八日、攘夷 親征の決定を一変させ、過激な攘夷は天皇の本意でないことを明らかにさせた。これが八月十八日の政 変であり、長州藩は御所警備の任を解かれ、三条実美ら尊王攘夷派七公卿は長州へ落ち、雄藩連合 の公武合体派が政治の主導権をにぎった。一方、長州藩も体制回復のため、元治元年(一八六四)六月、 京都守護職の会津藩主松平容保らの暗殺を計画、池田屋に結集したが、新撰組近藤勇らに急襲されて 失敗に帰した。池田屋事件を契機に、長州藩は蛤御門で会津・薩摩両藩と抗戦したが、結局は敗北し た。

 幕府はこれらの政変をとらえ、長州藩をつぶす好機と考え、朝廷に長州征伐の勅許を求めて許可さ れ、征伐が行われることになった。  譜代、つまり親藩の中津藩は地理的にも長州に近く、海路、下関へ先陣として攻めこみ、小倉・熊 本両藩と共に山日表へ進撃せよとの命令がくだった。  中津藩では藩主奥平昌服が率先して回一〇〇余の兵を率いて、豊前の黒原へ出陣したが、この間、 藩内では長州との戦いについて意見が分かれた。当時、藩内にも尊王攘夷論者が多く、幕政の改革を 期待する声も大きかった。徳川家譜代の中津藩としては、幕命にしたがう以外になかったが、同年ハ 月には天洙組の蜂起、これに呼応した福岡藩士平野国臣らの「生野の変」がおこり、薩摩藩でも西郷 隆盛らが長州征伐を牽制したりしたため、長州征伐はさしたる戦闘もなく和平のうちに終った。

第二次長州征伐

 しかし、翌慶応元年(一八六五)、長州藩で高杉晋作らが討幕の姿勢を強く示すと、幕府は中 長州征伐 津藩に再び第二次出兵の命令をくだした。すでに長州藩は同年十一月、小倉城を落とし、    中津藩も一時危機に瀕したため、幕府は豊後七藩に対し中津藩援助を命じたが、薩摩藩が出兵を拒否するなど、幕府側の意気はあがらなかった。こうした状況のなかで、慶応二年、薩摩・長州連合の密約が成立、同年十二月、孝明天皇の死去で長州征伐は中止となり、幕府の威信は完全に失墜した。    幕末の政治的激勤期にあたり、中津藩は幕府に従いながら、一方、朝廷に対しても恭順の態度を示 すという、二者択一的な態度で対応した。第二次長州征伐のときには、中津藩兵のもとに長州の使者   もきて、幕府政治の行づまりを訴え、長州に協力する’」とを求めたが、中津藩の軍議掛は長州藩の勤 王主義を高く評価しつつも、譜代の故に勤王を表立って明言できない複雑な立場を説明することに終始している。

  また、藩主奥平昌服も、文久三年四月から六月に京都守護役を勤めたとき、天皇に拝えつしているし、最後の藩主昌邁も、慶応三年、討幕の命令がくだるや江戸から大阪に行き、朝廷に使者を送って 徳川家のために恩赦を強く訴えるなど、哀訴を口実にして朝廷対策を怠らなかった。    政治的激勤期をのりこえるためには、小藩としてはこのように態度をあいまいにして、変勤に対処 していく以外になかったといえるかも知れないが、中津藩の対応はその典型であり、幕府へは表面上  忠誠を誓いつつも、状況をみきわめながら、幕府側を脱して最終的には朝廷につく方向をまさぐって いたものとみられる。    かくして、慶応三年十月、薩摩・長州の両藩に討幕の命令がくだり、鳥羽・伏見の戦争で幕軍が敗 北すると、薩長連合軍が優勢となり、中津藩も薩摩藩とともに会津まで転戦した。.そして、将軍徳川 慶喜が大政を奉還し、朝廷に対して恭順の意を表わし、王政復古となった。王政復古にいたる複雑な激 動期を、中津藩はまず無難にのりこえ、明治維新を迎えたということができるであろう。