しかし、長州藩は朝廷中心の新しい政治の確立をめざし、ここにさまざまな政変が生じた。孝明天 皇に攘夷親征の詔を出させた長州藩に対し、会津・薩摩ら公武合体派は、文久三年八月十八日、攘夷 親征の決定を一変させ、過激な攘夷は天皇の本意でないことを明らかにさせた。これが八月十八日の政 変であり、長州藩は御所警備の任を解かれ、三条実美ら尊王攘夷派七公卿は長州へ落ち、雄藩連合 の公武合体派が政治の主導権をにぎった。一方、長州藩も体制回復のため、元治元年(一八六四)六月、 京都守護職の会津藩主松平容保らの暗殺を計画、池田屋に結集したが、新撰組近藤勇らに急襲されて 失敗に帰した。池田屋事件を契機に、長州藩は蛤御門で会津・薩摩両藩と抗戦したが、結局は敗北し た。
幕府はこれらの政変をとらえ、長州藩をつぶす好機と考え、朝廷に長州征伐の勅許を求めて許可さ れ、征伐が行われることになった。 譜代、つまり親藩の中津藩は地理的にも長州に近く、海路、下関へ先陣として攻めこみ、小倉・熊 本両藩と共に山日表へ進撃せよとの命令がくだった。 中津藩では藩主奥平昌服が率先して回一〇〇余の兵を率いて、豊前の黒原へ出陣したが、この間、 藩内では長州との戦いについて意見が分かれた。当時、藩内にも尊王攘夷論者が多く、幕政の改革を 期待する声も大きかった。徳川家譜代の中津藩としては、幕命にしたがう以外になかったが、同年ハ 月には天洙組の蜂起、これに呼応した福岡藩士平野国臣らの「生野の変」がおこり、薩摩藩でも西郷 隆盛らが長州征伐を牽制したりしたため、長州征伐はさしたる戦闘もなく和平のうちに終った。
また、藩主奥平昌服も、文久三年四月から六月に京都守護役を勤めたとき、天皇に拝えつしているし、最後の藩主昌邁も、慶応三年、討幕の命令がくだるや江戸から大阪に行き、朝廷に使者を送って 徳川家のために恩赦を強く訴えるなど、哀訴を口実にして朝廷対策を怠らなかった。 政治的激勤期をのりこえるためには、小藩としてはこのように態度をあいまいにして、変勤に対処 していく以外になかったといえるかも知れないが、中津藩の対応はその典型であり、幕府へは表面上 忠誠を誓いつつも、状況をみきわめながら、幕府側を脱して最終的には朝廷につく方向をまさぐって いたものとみられる。 かくして、慶応三年十月、薩摩・長州の両藩に討幕の命令がくだり、鳥羽・伏見の戦争で幕軍が敗 北すると、薩長連合軍が優勢となり、中津藩も薩摩藩とともに会津まで転戦した。.そして、将軍徳川 慶喜が大政を奉還し、朝廷に対して恭順の意を表わし、王政復古となった。王政復古にいたる複雑な激 動期を、中津藩はまず無難にのりこえ、明治維新を迎えたということができるであろう。