古代中津の概要

山国側と中津

山国川 中津市の歴史は、山国川とともに発展の遠をたどってきた。特に古代の生活跡をたどると、 流域(本流・支流)の洞穴や扇状地、さらに下流域の沖積平野に主要な遠跡がみられ、山国川と 中津市の縁由を知ることができる。山国川流域の遠跡で旧石器時代の遠物が発見されたという報告や 調査は、いままでのところない。しかし、本耶馬渓町枌洞穴の下層から細石刃と考えられる遺物が発見されているので、調査の進展をまって旧石器論をすすめなければならない。もし、枌洞穴発見の細石刃が後期旧石器の時代に相当することが確実になれば、古人(新人)や原人の遠古の歴史の 跡を探求することができよう。

 縄文時代の遠跡としては耶馬渓町ダットク遠跡(岩陰)や前記の枌洞穴などから、押型文土器が発見 され、土器の表面に施文された文様や、尖底土器の形式から縄文早期と考えられる。この縄文早期土 器は東国東郡国東町成仏遠跡出土の押型文土器に類似し、 成仏遠跡の絶対年代(放射性炭素C14測定)をあ てれば8200年前となる。縄文早期から中期頃まで山国川流域を拠点として生活を営んでいた人遠 が、下流の沖積平野で活躍をはじめたのは縄文後期の時代と考えられる。

  山国川の河口は三口付近を頂点として沖積平野・が広く東西に走り、典形的な三角州を形成する。こ の沖積地は周防灘にむかって展開し、遠浅の泥海性干潟地帯をつくりだした。泥海性の干潟は、ハマグリや、オキシジミなどの貝類の生息に適し、その捕食がおこなわれ、貝殻を遺棄した貝塚がみられ  る。縄文後期遺跡は、周防灘沿岸各地に点在し、泥海性海浜に位置してハマグリを主体とする貝塚を  特徴とする。中津市域の縄文後期貝塚は、山国川によって形成された沖積平野の東部、宇佐平野との 、境界近く洪積丘陵地帯に多くみられる。  

 縄文後期遺跡は、中津平野の東端よりはじまり、犬丸川流域を中心とした低い丘陵地帯に集中する。  この低丘陵はヽ大丸川の東で宇佐市と境界をなすが、付近全域に遺跡が散在している゜遺跡は集落と  貝塚からなり、近年の大規模圃場整備事業の促進により全壊の危機にある。特に宇佐市西和田貝塚・ 富山遺跡など、犬丸川東方の遺跡は、一部の調査にとどまり、農地改善事業による造成によって消滅  してしまった。現在残されている縄文時代遺跡は大丸川流域の植野貝塚(一部昭和三十年十一月調査)から、  中津平野縁端までの低丘陵地域に限られることになる。これらの低丘陵は、数カ所の浅い谷の刻入が  あり、小川が南北に走る。こうした小谷は、縄文時代に海水が浸入して旧海岸線の一部が深く湾入し  .ていたことを示す。かつて東木竜七氏が「旧森湾」(「日本内海西域周防灘南部の成因論」「地理学評論』五音  一号、一九二七)という名称で、豊後高田市と宇佐市との境域において設定した縄文後期の海岸線を中津  地域にあてることもできる。

  山国川下流に形成された自然堤防に、現在の中津南高等学校がある。この一帯に縄文後期末の集落 が存在していた。土器とともに発見された二つの土偶は、写実的な女体の像として注目された。縄文 晩期から弥生前半の遺跡の探索は、今日まで明らかでない。中津南高等学校の南に広がる氾濫原は下宮永から高瀬地区の集落となる。この高瀬集落の西側、山国川との境界にいたる一帯に高瀬遺跡があ る。この遺跡から採集された土器にヘラがきの文様によって幾何学的文様の壷の破片があった。この 土器といっしょに、鉢形土器の口の部分に隆起線を巻くことをもって特徴とする土器干城式)が発見 されている。このヘラがき文様の壷と、隆起線文の鉢との組合せは、弥生前期末(城越式)の特徴をあ バりわしヽ北部九州、特に関門一帯の文化との対比で注目される。  

 弥生終末の遺跡は、中津平野の各所にみられる。弥生文化から古墳文化の過渡期、弥生終末と古式  か距かとの推移は、畿内文化の浸透を意味し、古墳文化の発生とともに重要である。高瀬遺跡・上万  田遺跡は、山国川の流域に沿って、沖積平野に立地する代表的遺跡である。  

畿内系古墳の進出

畿内系古 中津平野に畿内系古墳の進出がおこなわれたのは、九州全域からみて初期にあたると考え  墳の進出 られる。現在前方後円頂は亀山(亀塚古墳)が消滅して存在しないが、宇佐市赤塚古墳、京  部郡(福岡県)苅田町石塚山古墳など、中津市を中心にして二つの古式前方後円墳が遺存している。こ  の二つの古墳は前方後円の墳形の状況や、内部主体、出土鏡などからみて、四世紀前半の古墳と推断 、できる。鏡は、三角縁神獣鏡が主で、それぞれ畿内の大王墳(京都府椿井大塚古墳)との除窓鄭(同じ型より 作り出された鏡)をなし、このことから、大和王朝の分配鏡(第一回目の分配)と判断される。  中津市をはさんで、東西の古式前方後円墳が四世紀前半と推断されるとして、その豊前の中心をな す下毛一帯もまた、宇佐平野・豊前平野とともに重要な地帯であった。このような点で、亀山の消失 は、古式古墳の性格を考えるうえで貴重な損失といわねばならない。

 中津平野をとり巻く周辺の低い丘陵は、後期古墳の群存地であった。六世紀から七世紀初頭の横穴 式石室墳は、当代の支配一族の墳墓として築造されたものと考えられる。伊藤田地区城山古墳群や相 原古墳群は、それぞれの地域に支配権を行使する地方権力の所在をあらわすものである。城山古墳出 土の副葬品・馬具類は、当代貴族の乗馬の風習をよくあらわすものとして注目される。  後期古墳の出現はそのまま、仏教文化の導入につながりをもつものと考えられている。伊藤田踊ケ 迫に須恵窯跡と瓦窯跡が併列して発見された。この調査では瓦窯跡のみが発掘されたが、須恵器が窯 跡の中から瓦とともに出土した。この瓦が須恵器とともに焼成されたことがわかるが、何よりも重要 なことは須恵器の特徴によって、瓦の実年代が推察されたことであった。

 踊ケ迫の須恵質の瓦が、共伴の須恵器と同様に六世紀後半のものであるとすると、その供給をうけ た寺の造立を考えなければならない。最近、山国川の対岸、築上郡新吉富村桑野原において発見され たこの種の古瓦出土地が、踊ケ迫瓦窯の供給をうけた伽藍跡ということも考えられる。また、中津市 北原一帯の低い丘で、同じ古瓦の断片が発見されている。ここにも同様に古寺の跡を探究できる。い ずれにしても、踊ケ迫瓦窯跡の須恵瓦をもった寺跡が発見されれば、九州における飛鳥寺院の足跡を たどることができる。  

仏教文化と相原廃寺

  仏教文化と 相原廃寺はかつて百済寺と呼ばれていたようであるが、この寺跡の金堂跡と考えられる 相原廃寺基壇の版築の様子は、朝鮮半島寺跡にみる土壇形成の技術を取り入れた確証として注目 されねばならぬ。大貞ハ幡境域、三角他の築堤の土類が版築であるとすれば、古墳や、仏教遺構の築 造にあたって、朝鮮半島技術者の介入の存否を決めるものとして注目される。かりに太宝年間の戸籍 にみる帰化技術者の実態が、こうした古代の技術に直接みられるとしたら興味深いことである。

遺跡とともに遺物にもみるべきものが多い。植野貝塚の縄文土器にみられる磨消縄文の技術は、原 始の美しさを充分に堪能させるものがあった。これは中津地方の土着文化に根ざしたものである。し かし容器としての土器は実用のものであり、実用と観賞を併用する容器の出現は、七世紀以降のこと と思われる。素焼の土器に縁粕をかけた所謂柏薬陶器の出現がそれである。灰粕は六世紀から七世紀 の間に自然につくられた。伊藤田周辺、台地縁端の須恵瓦窯跡から大量に発見されている。それは、「灰かぶり」と称して昨今の愛陶家の仲間で好評の「自然柚」によって形成されたものである。   

  市の東鄙野依付近に条里がみられ、その溝中より軟貫禄粕彩陶器が一個発見された。この縁粕陶器 は、昭和二十七年以降「大宰府遺跡の都制の研究」において発掘された土師器にみられる軟質縁粕と 大差なく、十世紀代の所産として間違いない。こうした初期陶磁の出現は、中央官衛から発して地 方への移入がみられ、少なくともその所有は郡衙程度をあてなければならないであろう。

 さて、現在の中津地方における遺跡・遺物の研究で、そのクライマックスは、仏教の導入とその背 景の問題である。いずれの理由か判然としない分野が、いまだに多く、全体を明らかにすることはで きないが、伊藤田、踊ケ迫の瓦陶兼業の窯跡が、須恵器製作の技衙を駆使して瓦を焼き、それを寺の 造営に役立てたことはまず間違いない。その寺の探索によっては今後計り知れない問題を提起するこ とになるであらう。つづいて百済寺の自派寺院の建立と、大宝の戸籍における帰化入技衙者との関係 は、豊前古代史の重要課題である。宇佐ハ幡の発生に関する多くの謎も、こうした豊前平野における 中津周辺の遺跡と、遺物による解明が必要であることは多くの資料で証明される。

 下毛郡衙の問題もまた興味をひく課題であるが、中津平野の中心部にある条里遺構や野依の条里遺 構とも関連して考える必要がある。この一帯の条里は奈良時代前半、天平年間頃までに設定したと推 理される点から、条里遺衙に関連して郡衙などの重要な場所の選択が必要である。野依の条里遺衙中 ’から縁釉彩陶器が発見されたことで、その地に下毛郡衙を想定しうるが、下毛全体の位置から推理し てまだ問題なしとも言い難い。有力な遺物の発見であって、問題を発展させる意味もあり、今後の調 査に期待するところが大きい。